2007/12/23

べびすた

Hoi2 DDA
 

1949年1月。近接支援と戦術爆を数師団作り、歩兵も増量して連合と開戦。
プランとしては
フランス方面マジノ線が健在なので、数師団ずつ貼り付けて防御。北部の旧ベルギーオランダルクセンブルク領は特に注意。フランス南部も同様。イタリアへの強襲揚陸が合った場合は爆撃でなんとかする。中央で飛び地になっているフランス領にはあまり兵が居ないので数師団で対処し、そのまま北部へ合流。
ポーランド方面は力押し。できるだけ早く片付ける。
トルコ方面は放棄。イスタンブールに数師団おいてなんとかする。
スカンジナビア方面への強襲揚陸はやはり対処用に数師団置いてなんとかする。

やってることは1939ドイツとあまり変わらないともいう。歩兵主体なので速度がアレだけど。

結局4ヶ月ほどかかってポーランドを潰し、フランスに再配置後、攻勢に出てフランス占領。途中でマンパワーが0になってあわててマンパワー増加大臣に変更。トルコ方面は予定通りイスタンブールで足止めに成功し、フランスが片付いた後スエズまで侵攻。その後スペインを落とし、ジブラルタル確保しつつ、イギリス本土に強襲揚陸して

 

1952年3月。フランス戦が結構ぎりぎりな感じでした。1951年末頃にマンネルヘイム元帥が死去したのがショックだなぁ・・・。研究は一通りコンプ済み。原子炉とロケット試験場がMAX。


ちなみに米帝は1951年8月頃に「ドイツと戦争の準備をしなければ」とか言ってました。

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